葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」の「武陽佃嶌」について説明相州七里浜について説明する。
この浮世絵は現在の中央区佃島で、今は地名だけで島ではなくなっている。
佃島は元々、隅田川の河口に自然にできた寄洲。
徳川家康は幕府を江戸に置くにあたり、江戸時代大阪(摂津国佃村)の漁夫の漁民を江戸に呼び寄せ、ここに漁村を作った。
幕府は佃島の漁民たちに江戸近海で優先的に漁が出来る様な特権を与えて保護したといわれる。
毎年十一月から翌三月頃までは四ッ手綱の漁の白魚漁がさかんに行われ江戸風物のひとつとなった。
佃島周辺で採れる海産物を使って作った煮物の「佃煮」は今でも有名である。
佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。
雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになった。保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及した。
さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まったとされる。
この浮世絵の情景は、西の空が夕暮れに染まる時間帯、人を乗せる船、物を乗せる船、漁船など、さまざまな用途の船が島の周囲を行き来している。
様々な動きを見せる船は、約15年前に刊行された浮世絵『北斎漫画』に見ることができる。手前の船の積み荷の形は、富士の形と相似させている。
この浮世絵は1830年から1832年頃の作品である。北斎の年齢が72歳頃になる。
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