池鯉鮒宿からから岡崎宿まで15.0km 北緯34度57分17秒 東経137度10分23秒
岡崎宿は、東海道五十三次の38番目の宿場です。
岡崎宿は東海道五十三次の中でも屈指の規模を誇る宿場町でした。
岡崎は矢作川の水運や奥三河からの物資集積で栄えました。
町づくりの功労者は、秀吉公の家臣だった田中吉政です。
吉政は、家康公の江戸入りの後に岡崎城城主となりました。
吉政は、東海道を城下町に引き入れて、くねくねとした屈折の多い道筋「二十七曲り」を作りました。
「二十七曲り」は城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果を狙った道として作られました。
岡崎は五万石しかないですが、徳川幕府の下では徳川家康生誕の岡崎城の城下町を背景に宿場町の規模も府中宿に次いでの規模です。
研究教育施設や史跡が多く、市の規模にしては文教都市の色が濃い都市です。
廃藩置県の際に一時存在した額田県の県庁所在地であり、岡崎城がその庁舎となっていました。
現在は中京圏に属する名古屋市の衛星都市です。
昼夜間人口比率は93.9%と流入人口より流出人口のほうが大きく上回っています。
中京工業地帯に含まれます。
三菱自動車工業やアイシンなどの自動車関連工場が集まっています。
伝統地場産業には八丁味噌、花火、石製品などが知られいます。
八丁味噌は、今川義元の家臣であった早川新六郎勝久が寺で味噌造りを学びます。
数代の後、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある八丁村へと移りました。
1645年に味噌造りを始めました。地名に由来して、「八丁味噌」と呼ばれるようになりました。
味噌の特徴は、米麹や麦麹を用いず、原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆味噌の一つです。
味は、独特の渋みとうまみが特徴です。
①「保永堂版」
眼前を流れる矢矧川に架けられた矢作橋です。
矢作橋は幕府によって架けられた東海道随一の大橋です。
『東海道名所図会』には「長さ二百八間(約370メートル)…東海第一の長橋なり」とあります。
この大橋に大名行列の一行をずらりと並ばせて、その長さをより一層強調したと思われます。
対岸に姿を見せているのが、岡崎城の天守閣です。
岡崎城の背景に本宮山が浮かんでいます。
矢矧川を使い城下まで船で輸送ができました。
②「行書版」
矢作橋を中心に描いています。
後方に岡崎城を描いています。
橋を行きかう人物は、槍持ち、精進の僧、日傘をさす馬上の女と多彩です。
③「隷書版」
矢作橋を中心に描いています。
保永堂版は遠景、行書版は近景、隷書版はその中間の距離感で描いています。
④「北斎版」
保永堂版よりもさらに遠景で高所から大名行列を描いています。
⑤「旅画像」
岡崎市街の画像です。
⑥「スタンプ画像」
名鉄 東岡崎駅の切符です。
保永堂版
行書版
隷書版
北斎版
旅画像
スタンプ画像
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