東海道五十三次の解説 23 藤枝

東海道五十三次

島田宿から藤枝宿まで8.7km 北緯34度52分11.3秒 東経138度15分9.8秒 

藤枝宿は、東海道五十三次の22番目の宿場です。
現在の静岡県藤枝市の山沿い、同市本町および同市大手にかけての一帯になります。
藤枝市は安倍川と大井川に挟まれた地域の都市です

歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として栄えました。
また塩の産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として栄えました。
宿場の全長は約2㎞で、旅籠や商家などおよそ670軒が連なる大きな宿場でした。
山間部や沿岸部をつなぐ道との交差点となり、たくさんの山の幸や海の幸が運ばれ、多くの旅人や商人で賑わっていました。

明治時代に入り東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 – 藤枝宿 – 島田宿というルートとなる予定でした。
地形が険しい上に遠回りになることから大崩 – 焼津 – 島田宿がルートとして選ばれました。
1889年に開業した藤枝駅は宿場町から3kmほど離れた位置に設けられました。

駅が設置されなかったことで宿場町や商業地として停滞しました。
1913年藤相鉄道が旧宿場町に通じ、藤枝本町駅、大手駅等が設けられました。
しかし、1964年に廃止されました。
軌道交通には恵まれなかったものの、藤枝バイパス等が整備されました。

徳川家康が鷹狩りのために度々訪れた「田中城下屋敷」や、静岡県の天然記念物・久遠の松のある「大慶寺」など、藤枝市を代表する歴史的な観光地が数多く残っています。

田中城は500年ほど前に、この地の豪族であった一色氏が、今川氏の命を受けて屋敷を拡大して城としました。本丸を中心に、二の丸、三の丸、外曲輪の4つの曲輪と4つの堀が同心円形に配置された直径およそ600mの円形の城です。
全国的にも珍しい形をした城です。
明治維新後に廃城となります。
現在は本丸の跡地に、小学校が建てられています。
城の姿は見ることはできません。
城主の別荘が置かれていた下屋敷の跡地に「史跡田中城下屋敷」として、その庭園が復元されました。
城内にあった本丸櫓や茶室など田中城にゆかりのある建物も移築、復元され、歴史的に貴重な建造物や資料を見ることができます。

現在はサッカーを核としたまちづくりをしています。
藤枝東高がサッカーの強豪として名を馳せていました。
J2に属している藤枝MYFCが本拠地としています。
Jリーグに属しているアビスパ福岡は、藤枝ブルックスのチーム名で藤枝市を本拠地としていました。

①「保永堂版」

宿の問屋場で駅伝の荷駄の継ぎ立てするところを描いています。
副題に「人馬継立」とあります。
人馬継立とは運ばれる荷物の人足と馬が交代することです。
問屋場とは、人馬の継ぎ立てや貨物の運送をさばいた所です。
町役人が荷物の賃金を決め、馬の乗換えし、人足の補充をした機関でした。
右上の問屋場の役人が見守るなかで、荷物の引き継ぎ作業が行われています。
汗をふき、休みをとる者、荷物を積み直す者など、いろいろな姿が描かれています。
雲助と呼ばれる人足が活躍しています。
人足が担ぐ荷物に立てられた名札には、版元の「保永堂」とあります。
馬のお腹には版元の主人の竹内孫八にちなみ「竹内」の文字が見えます。

②「行書版」
 瀬戸川の歩行(かち)渡しの風景です。
 瀬戸川は宿場はずれにある川幅の狭い浅い川です。
 人足に担がれる旅人の様子が描かれています。

③「隷書版」
 松並木でにわか雨にあわてている様子です。
 庄野宿の白雨に似ています。

④「北斎版」
 東海道23の目印が大きな松の木の下に描かれています。

⑤「旅画像」
 JR藤枝駅です。画像がぼけています。
 
⑥「スタンプ画像」
 JR藤枝駅のスタンプです。

保永堂版 

行書版 

隷書版 

北斎版 

 旅画像 

スタンプ画像


  

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