東海道五十三次の解説 40 池鯉鮒

東海道五十三次

鳴海宿から池鯉鮒宿まで11.1km  北緯35度00分05秒 東経137度03分03秒 

池鯉鮒宿は、東海道五十三次の39番目の宿場です。
歴史的仮名遣いでは「池鯉鮒 ちりふ」です。現在の漢字では知立になります。
現在は愛知県知立市になります。

江戸の日本橋から約330kmで、当時およそ10日間かかったといわれています。

池鯉鮒宿には本陣1件、脇本陣1件、旅籠35件、人口1620人でした。
池鯉鮒宿は物資の集積場として発展しました。
馬市や三河地方の特産品であった木綿市等が行われました。周辺地域の経済的中心地となりました。
明治時代に馬市は松並木から慈眼寺(山町桜馬場)へと移動しました。
さらに牛市・鯖市に移り変りましたが、昭和では終了しました。

知立は112年に創建された知立神社の門前町として発展しました。
知立神社は927年に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社であります。
東海道三大社(三島大社、熱田神宮、知立神社)の一つとして、大きな影響力を持っていました。

知立神社の神官の永見氏は後白河天皇配下の武士となり知立城を築きました。
また、永見氏は土豪としても勢力を広め、長きに亘りこの地を支配しました。
戦国時代に入ると永見氏一族から徳川家康の側室、於万の方を輩出し結城秀康が誕生しました。

現在の知立市中心部の人口密度は三河地方で最も高い。
名古屋市の25km圏内に位置するため、ベッドタウンになっています。
2016年より、知立駅の立体交差事業により大規模な再開発が行われています。
市名の由来は、7世紀後半の木簡に「知利布」とあります。
律令制以後の8世紀の木簡に「知立」とあります。
平安時代の『和名抄』に「智立」郷があります。
江戸時代には「池鯉鮒」という宿場町として栄えました。
「池鯉鮒」の名は知立神社の御手洗池にコイやフナが多数いたことに由来しています。

①「保永堂版」
 首夏(夏の初め)の馬市の様子を描いています。
 ここでは毎年4月の末から5月の頭にかけて馬市が開かれていました。
 野原に立つ杭に多くの馬がつながれている。
 今まさに馬を連れてきた者の姿が見えます。
 中央の一本松の下では馬喰と呼ばれる馬の仲買人による取引が行われています。
 そのため、この松は談合松と呼ばれていました。
 様々なポーズをした馬の姿、風になびく草原の描写は動きに満ちています。
 約23頭の馬の姿に観る者を飽きさせません。

②「行書版」
 松や杉の並木が続く街道ののどかな風景です。
 大きな松の下で休む人。立ち止まって煙草を吸う人。
 大きな木の根元で居眠りする人。
 それぞれが、のどかな旅の風景です。

③「隷書版」
 街道風景です。
 重い荷物を籠かき風に運んでいます。
 特産物の木綿を運んでいるのでしょうか。
 面白い風景です。

④「北斎版」
 池鯉鮒の地名を表現している風景です。
 近くに池があり、大きな魚が網ですくわれています。
 この大きな魚は鮒ではなく鯉と思われます。

⑤「旅画像」
 画像はありません。 
 
⑥「スタンプ画像」
 名鉄 知立駅の切符です。 

保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

スタンプ画像

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