東海道五十三次の解説 26 日坂

東海道五十三次

掛川宿から日坂宿まで7.1km 北緯34度48分15秒 東経138度04分30秒

日坂宿は、東海道五十三次の25番目の宿場です。

現在の静岡県掛川市日坂です。
東海道の三大難所(峠)の一つとされる小夜の中山の西麓に位置します。

金谷から日坂宿までは約6.5kmと短い距離ですが、金谷坂に始まり小夜中山の峠越えと厳しい道が続きます。
日坂宿は中世の頃には既に存在した宿場で、「入坂」「新坂」「西坂」と書かれています。
東海道分間之図には「新坂」と書かれています。
日坂宿は1601年に東海道の宿場に指定されました。

1843年の記録では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋は33軒でと東海道の宿場としては小規模です。
宿の全長は東西6町半、宿内人口は750人、宿内家数は168軒でした。
幕府から定められた宿場の役割は、小さな村にとってはかなりの負担でした。

小夜の中山峠は、日坂宿と金谷宿の間にあります。
急峻な坂の続く街道の難所でした。うっそうとした樹木に埋もています。
当時は山賊なども横行したため、大の大人でも峠越えは容易ではありませんでした。
現在は道や公園も整備され、ハイキングや史跡散策のコースとして親しまれています。

小夜の中山には、「夜泣き石」伝説が残されています。
夜泣き石の伝説は、久延寺に安産祈願にきた妊婦が中山峠を越える途中、山賊に襲われて殺されました。
お腹の切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、母の魂はかたわらの石にのり移って泣きました。
赤ん坊の泣き声に気づいたお寺のお坊さんに拾われました。
赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられました。
そしてその子供は立派に成長し、母の仇を討ったと云われています。
夜泣き石は現在小夜の中山トンネル脇に据えられています。
伝説ゆかりの久延寺にも似た形の石がまつられています。

日坂宿の名物はわらび餅です。
この宿のわらび餅はわらびの粉ではなく、くずの粉を使っていました。
1845年に東海道を経由して伊勢参りの旅人は「日坂 蕨餅 16文」と備忘録に記載しています。

膝栗毛の弥次さん喜多さんは日坂宿に八ツ頃(午後2時ごろ)に着いたが土砂降りの雨です。
宿屋の亭主に勧められて日坂宿で泊まることになりました。

明治時代に入り、東海道本線が小夜の中山を迂回しこの宿場を通らず建設されたため宿場は衰退しました。
戦後国道1号線は小夜の中山の北側の沢を開削する新ルートを拓き、この宿場の南東を迂回するように整備された

①「保永堂版」
小夜の中山に。夜泣石の伝説があります。
その急勾配の坂は東海道の難所の一つです。
坂下の大きな石は、伝説の夜泣き石です。
赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられました。
子供を飴で養育したということで、子育飴として名物になっています。
子育て飴は、もち米と大麦を原料にした水飴です。

②「行書版」
 中央の大きな石が夜泣石です。
 旅人が立ち止まり、石を見ています。

③「隷書版」
 中央の大きな石が夜泣石です。
 この構図ですと小夜中山の峠越えと言われた割には坂が急ではありません。
 保永堂版の構図ではものすごく急に描かれています。

④「北斎版」
 小夜中山の峠越えの風景ですが、お決まりの夜泣石はありません。

⑤「旅画像」
日坂の高札場です。
 
⑥「スタンプ画像」
日坂地域振興会のスタンプです。 

保永堂版 

行書版 

隷書版 

北斎版 

旅画像 

スタンプ画像

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