東海道五十三次の解説 24 島田

東海道五十三次

金谷宿から島田宿まで3.9km 北緯34度49分58秒 東経138度10分33秒

島田宿は、東海道五十三次の23番目の宿場です。
現在の静岡県島田市です。

島田宿の規模は本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠48軒、人口は6727人です。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われています。
東海道の難所の一つです。
かつての川越し宿場は「島田宿大井川川越遺跡」として国の史跡となっています。
大井川上流から切り出された木材の集積地として発展しました。
元禄期には運河が開削され、栃山川、木屋川を経て、和田湊(現在の焼津漁港南部)から江戸に運ばれました。

大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、江戸のような賑わいをみせていました。
長雨により、滞在費と遊興費に所持金を使い果たすことも珍しくありません。
そのため、所持金が無くなったり宿が満員になった際には家を借りていました。
なごりで島田の旧東海道沿いには御仮屋という地名があります。

島田宿大井川川越遺跡とは、静岡県島田市にある国指定の史跡です。
川会所をはじめとする施設等20か所および施設のある街道が史跡に含まれます。
諸街道は江戸防衛の要所として大井川の渡船、架橋を禁じられて「渡渉制度」が施されました。

川越制度と川会所とは、江戸時代の初期に宿駅伝馬の制が定められ、街道整備が行われました。
大きな河川には橋がほとんどかけられず、旅人は船か徒歩で渡るほかありませんでした。
特に大井川は渡船も禁止され、流れも急なので不慣れな旅人が渡るには危険であした。
両岸では川越しの手助けを生業とする人々が現れました。

そして、街道の通行量の増加とともに渡渉の方法や料金などを統一する必要が生じ、1696年に川越制度ができました。
その管理のために川庄屋の役職と、業務の拠点となる川会所がおかれました。
最初の川庄屋は、島田代官の野田三郎左衛門から任命された橋爪助左衛門と塚本孫兵衛の二人でした。

川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれました。
川会所でその日の水深を計り、川越賃銭を定めます。
大名から庶民までの通行人の渡渉の割り振りや、諸荷物の配分などの運営を行う仕事がありました。

川越しは明治維新まで続けられていました。
1870年 川越人足廃止に伴い、渡船が運行開始されました。。
1875年 木製の仮橋を架設しました。木製の仮橋は度々増水で流されました。
1883年4月 本設の木橋が完成しました。。
1895年10月 木橋が増水で流失し、渡船が復活しました。
1928年3月 鉄橋が完成しました。

現在の川会所の建物は1856年に建てられたものです。
川越し制度廃止後は大井川通船の事務所や学校の校舎など様々に利用されその位置も転々としていました。
1966年8月に島田宿大井川川越遺跡が国の指定を受け1970年8月、現在地に移築されました。

世界一長い木造歩道橋は「蓬莱橋(ほうらいばし)」です。
大井川にかかる蓬莱橋は全長897.4m、通行幅2.4mの昔懐かしい木造歩道橋です。
1997年に「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されました。
現在では数少ない賃取橋で、橋のたもとにいる「橋番」に通行料を支払ってから渡ります。
1日250~300人、年間にすると10万人以上が訪れています。

①「保永堂版」
 これから川を渡ろうとする旅人一行が河原で大勢休んでいます。 
 荷分け、荷を馬に積むもの、かつぐもの等のにぎやかな光景です。
 大井川の川渡しは東海道中最大の難所です。
 川幅は1300mで水深も深いため、梅雨の時期に増水した場合は嶋田宿に長期に足止めさせられます。
 かなり高い視点から俯瞰して描いています。

②「行書版」
 渡河を終えた旅人とこれから渡ろうとする旅人を橋の上に描いています。
 橋は岸辺と中州をつなぐものです。
 遠くに白い富士山が描かれています。

③「隷書版」
 金谷の方向から川渡しを描いています。
 広重ブルーがきれいです。
 遠くに白い富士山が描かれています。

④「北斎版」
 川渡り終えた人足が暖を取って休憩しています。
 左の旅人は交渉しているように見えます。

⑤「旅画像」
 JR島田駅です。
 
⑥「スタンプ画像」
 JR島田駅のスタンプです。
 蓬莱橋が描かれています。

保永堂版 

行書版 

隷書版 

北斎版 

旅画像 

スタンプ画像

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