東海道五十三次の解説 32 荒井

東海道五十三次

白須賀宿から荒井宿まで6.5km 北緯34度41分42秒 東経137度33分02秒  

荒井宿(新居宿)は、東海道五十三次の31番目の宿場です。

新居宿は、浜名湖西岸の今切口に面した標高約3-5m程の低地に立地します。
隣接する新居関所(今切関所)は東に浜名湖口に面しています。
平安から中世までは、浜名川沿いの浜名橋周辺の橋本宿が繁栄していました。
明応地震・津波の被害により壊滅し、今切・新居地区へ移転しました。

江戸時代には、浜名湖今切口の対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれました。
東海道の要衝のひとつとして今切関所(新居関所)がおかれていました。
現在、浜名湖の埋立てのため、新居関所及び今切口周辺の地形が当時とは大きく変化しています。
新居関所は、「新居関跡」として、国の特別史跡に指定されました。
隣接地に新居関所史料館があります。

1498年8月の地震津波以前の湖口の絵図によると舞坂と新居は陸続きで、新居の地名の由来となります。
阿礼の崎に荒井の集落があり、舞坂は当時前沢と呼ばれていました。

1498年8月25日に明応地震が起こり、遠州灘沿岸は大津波に襲われました。
浜名湖開口部は沈下し、今切口が決壊して海水が湖に流入し、塩水湖となりました。
明応地震により橋本は壊滅し、住民は今切・新居地区(荒井)に移転しました。

、宿駅では人馬継立を行うため、問屋が宿を統轄し、宿・助郷の人馬、継立事務処理を行っていました。
しかし、宿駅の力が弱い場合隣接する村落が加宿となり、人馬継立の義務を分担しました。
新居宿の常備人馬100人・100疋のうち人足36人・馬36疋は橋本村が引請け一部分担していました。
新居宿の助郷高は、1819年に5,705石で、遠州路最低です。

今切口の復興と今切関所の流出・移転によって、今切の渡しが27丁(2.9㎞)から1里(約4km)に延長して渡航が不便になりました。

1702年以降には、吉田城主が今切の渡しの管理を委任されました。
今切の渡しは、新居宿の水夫360人、舟数120艘をもって行われていました。
一部が舞坂宿に常駐、渡船・輸送していました。

1844年の渡船と船賃は、人一人18文、荷物一駄53文、借切船417文となっていました。渡船は84艘です。
関所の建物が残り、その後学校に転用されたりしながら、保存されました。
現在、新居に残っている関所の建物は、1855年に再建されたものです。
日本に唯一現存する関所の建物として「新居関跡」として国の特別史跡に指定されています。

2014年10月6日、発掘調査によって大御門や土塁の遺構が出土した桝形広場が、特別史跡に追加指定されました。
新居関所史料館が、関所に隣接しています。

①「保永堂版」
 舞坂の渡し船「今切の渡し」を描いたものです。
 先を行く幔幕が張られた船は大名行列の一行を乗せた御座船です。
 時刻は夕刻頃と思われ、西の空が暮れようとしています。
 後続の舟には中間の供たちが、あきて大あくびや身体を丸めて寝入っています。
 舟が向かう先は右に見える新居関所です。
 この関所は幕府の直轄下で、取り調べが特に厳しいことが知られていました。
 船着き場はこの関所の中に置かれていました。
 箱根とともに東海道の重要な関所でした。

②「行書版」
 舞坂を背景にした構図です。
 荒井と舞坂の距離は海路一里半です。
 たくさんの帆船が、風を受け進んでいます。
 行き交う海上の様子を描いています。
 船の数が多いことから交通の要所です。

③「隷書版」
 左に新居関所の入口が見えます。
 遠方に富士山が描かれています。

④「北斎版」
 新居関所での取り調べの様子が詳細に描かれています。

⑤「旅画像」
 新居町駅です。
 
⑥「スタンプ画像」
 新居関所のスタンプです。

保永堂版 

行書版 

隷書版

北斎版 

旅画像 

スタンプ画像

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