東海道五十三次の解説 37 赤阪

東海道五十三次

藤川宿から赤阪宿まで8.8km  北緯34度51分21秒 東経137度18分30秒 

“8.8km 北緯34度51分21秒 東経137度18分30秒 

赤阪宿は、東海道五十三次の36番目の宿場です。
現在の愛知県豊川市にあたります。
赤阪宿は本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠屋62軒です。

御油宿や吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていました。
飯盛女とは娼婦のことです。
「御油や赤阪、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と言われた程の活気がありました。
現在は東海道本線が赤阪宿から外れたために、衰退しました。
その後、名鉄名古屋本線が開通しました。
名電赤坂駅は、優等速達列車が停車しなかったため、往時の繁栄は取り戻せませんでした。

赤阪宿と御油宿との間隔は、東海道の宿場の中で最も短く、約1.74kmです。
江戸時代に大火があり全て燃えてしまいましたが、江戸幕府の支援で宿を再建しました。

赤阪宿見附は東西に設けられました。
東は関川地内の東海道を挟む両側にありました。
西は八幡社入口附近の片側にありました。
東の見附は、1796年に関川神社前に移されました。
1868年の町並図では以前の場所に戻っています。
1874年に廃止されました。

問屋場は、伝馬役によって決められた人足や馬を常備しました。
宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで輸送する事務を行うところです。
問屋・年寄・帳付・馬指という宿役人により運営されていました。
宿場のほぼ中央に置かれ、本陣・脇本陣と共に宿場の大事な役目を果たしていました。
宿内の有力者が世襲でつとめることが多くありました。
1591年に、池田輝政が、赤阪宿に毎日馬46疋を常備するよう命じています。

東海道筋で唯一21世紀まで営業を続けた旅籠として、「大橋屋」があります。
間口は9間、奥行は23間ほどの大旅籠でした。
創業時の屋号は「伊右エ門 鯉屋」でした。
創業は1649年、現在の建物は1716年の建築と伝えられています。
2015年3月15日で旅籠としての営業を終了しました。

①「保永堂版」
清須屋の中庭を描いたものです。
旅籠屋の室内を上から覗き込むような構図です。
左側の部屋では横たわり煙管をふかす男性のもとへ女中が2膳分の食事を運び入れています。
その横では按摩師が懸命に客を口説いています。
右側の部屋には飯盛女たちが念入りに化粧を施しています。
奥の階段にも下りてくる人の姿が見えます。
人々の動きからこの旅籠屋の活況が伝わってきます。
中庭に配置された蘇鉄と石灯籠がアクセントになっています。
現在は、中庭の蘇鉄は、近くの寺院へ移植されています。

②「行書版」
 赤阪宿と御油宿間の松並木の様子を描いています。
 提灯を持っていることから夜間の道中風景です。

③「隷書版」
 夕闇の旅籠の様子を描いています。
 保永堂版では、旅籠の1階部分を詳細に描いています。
 隷書版では旅籠の2階を含め俯瞰的に描いています。
 
④「北斎版」
 旅人と娼婦(飯盛女)の風景です。

⑤「旅画像」
 名電赤坂駅です。
 
⑥「スタンプ画像」
 名電赤坂駅の切符です。 

保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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