赤阪宿から御油宿まで1.7km 北緯34度50分42秒 東経137度19分02秒
御油宿は、東海道五十三次の35番目の宿場です。
街道の面影を残す松並木が美しいことから観光地になっています。
御油宿より東に追分があり、姫街道の西の起点となっています。
姫街道は、「女改め」の厳しい新居宿を避けるために、東海道より浜名湖北の姫街道を通ることも多かった。
御油宿は、本陣が最多時4軒。最少時2軒でした。
姫街道は、浜名湖の北側、本坂峠を経由して見附宿と御油宿を結ぶ道程約60km街道です。
古くは東海道の本道で、二見の道と呼ばれていました。
中世以降、浜名湖南岸の往来が盛んになると長距離を移動する利用者は減りました。
本坂峠を経由したことから本坂越、本坂通、本坂道、本坂街道などと呼ばれました。
戦国時代に街道が整備され、江戸時代には東海道に付属する街道とされて宿が置かれました。
幕末頃から姫街道の呼称が定着し、明治以降、新道が出来て本坂峠はトンネルで、峠越えの道は廃道となっています。
江戸風俗史にある尻尾の短い猫は御油猫と呼ばれ流行しました。
御油から持ち込まれ、御油・赤坂の宿場駅間の短さを尻尾に例えて呼ばれました。
明治維新後、宝飯郡役所が置かれ、郡の中心になりました。
東海道本線の経由地に選ばれなかったため、鉄道開通後は鉄道が通じた御津や蒲郡に繁栄を奪われました。
その後、名鉄名古屋本線の開業時に本御油駅が開設された。
速達列車が停車しなかったため、維新前の繁栄は戻せませんでした。
郡役所、警察署等が御油から国府に移転しました。
1959年には、宝飯郡御油町は豊川市と合併しました。
現在の愛知県豊川市御油町に所在します。
①「保永堂版」
「留め女」と呼ばれる旅籠の女が旅人らを無理矢理引きずり込もうとしているさまを描いています。
御油の宿では日暮れになると「留女」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きが盛んです。
画中のような光景も大げさではなかったのです。
『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが…」とあります。その情景そのままの表しています。
手前の男は風呂敷を引っ張られ苦しむ。
後ろの男も袖を引っ張られ困惑している。
右の旅籠の中の様子は、留女に観念した。
草鞋を脱ぐ旅客に足洗い用の盥を差し出す老女が見えます。
②「行書版」
内容は保永堂版と同じです。
客引きの様子が細かく描かれています。
保永堂版の様な面白い客引きの表現はありません。
宿の壁に版元の「山田や」の文字が描かれています。
③「隷書版」
街道の大きな柳と旅人の後ろ姿が描かれています。
この構図では街道が細く整備されていないように感じます。
④「北斎版」
庚申塔(ごしんとう)前で休んでいる旅人と荷物を運ぶ旅人が描かれています。
庚申塔は、道教の教えで、庚申(かのえさる)の日の夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇ります。
天帝にその人の日ごろの行いを報告する。
罪状によっては寿命が縮まると言われていました。
寿命が縮まっては大変なので、この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。
日本では既に10世紀ごろには盛んだったようです。
この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わりました。
江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
⑤「旅画像」
名電御油駅です。
⑥「スタンプ画像」
名電御油駅は無人駅で切符の自動販売機はありませんでした。
行書版
隷書版
北斎版
旅画像
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