東海道五十三次の解説 49 阪の下

東海道五十三次

土山宿から阪の下まで9.8㎞  北緯34度53分19秒 東経136度21分15秒 

阪の下宿は、東海道五十三次の48番目の宿場です。
現在の住所は三重県亀山市関町坂下です。
かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わっていました。
江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間でした。
宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmです。
戸数約150戸、人口500人あまりと記録されています。
鈴鹿馬子唄では「阪の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」とあります。。
大竹屋は阪の下宿の本陣で、小竹屋は脇本陣です。
本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能ですが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだと唄われています。
旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿でした。

東海道の中でも、東の箱根峠の次に難所として恐れられていたのが、鈴鹿峠でした。
1650年9月2日、宿場は土石流の被害を受け壊滅してしまいました。
幕府の援助を受けて、1.3km東の現在の位置に移設されました。
1895年には関西鉄道が現在の草津線・関西本線で、草津駅と名古屋駅間を全通させました。
鈴鹿峠の勾配が急で蒸気機関車の障害になりました。
そのため路線は西寄りの柘植経由に変更になりました。
地域経済を旅人相手の商売に依存していた阪の下は、交通の要所から外れ衰退しました。
現在は国道1号の新道が通りますが、旧街道沿いは民家も少なく、過疎化が進んでいます。
かつての宿場町を示すのは、本陣跡のいくつかの石碑のみです。

①「保永堂版」
画面左に見えるのは岩根山です。奇岩や松、滝などで知られています。山肌には流れ出す2条の滝が見えます。
室町時代、狩野元信がこの山を描こうとしたが描き切れず、山間に筆を捨てたといわれて筆捨山と呼ばれています。
遠景のなだらかな山のかたちが筆捨山の奇抜さを表現しています。
山と街道の間の窪みには鈴鹿川が流れています。街道沿いは茶店があり、山の見物に客で賑わっています。

②「行書版」
保永堂版と同じ構図ですが、さらに詳細に表現しています。しかし、筆捨山の荒々しさがなくなっています。

③「隷書版」
画面右に見えるのは筆捨山です。右下に流れているのが、鈴鹿川です。
虚無僧や女行者が歩いています。

④「北斎版」
この絵は宿の様子です。
阪の下宿にある滝、「清瀧観音」が北斎の浮世絵では有名です。
全八図からなる名所絵揃物である「諸国瀧廻り」の1つです。

⑤「旅画像」
鈴鹿峠の風景です。現在は阪の下宿の面影のある場所がありません。

⑥「スタンプ画像」
現在は、駅スタンプや道の駅等がありませんので、画像はありません。

                     「保永堂版」

                    「行書版」

                     「隷書版」

                  「北斎版」

                「旅画像」

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