東海道五十三次の解説 2 品川

東海道五十三次

川崎宿から品川宿まで9.8km  北緯35度37分19秒 東経139度44分21秒

品川宿は、東海道五十三次の1番目の宿場です。
現在の東京都品川区にあたりなります。

中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれました。
宿は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋111軒、水茶屋64軒、人口7000人程で宿場の総延長は2kmです。

品川宿は1601年に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置されました。
北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯です。
品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿です。
西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わいました。
他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多いです。

目黒川を境に区分され、北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿と呼びました。
歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していましたが茶屋町が1722年に宿場としてみとめられました。
宿場が本来負担する伝馬と歩行人足ですが、歩行人足だけを負担しました。
歩行新宿は「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられました。

品川宿の遊郭は岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても栄えました。
1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めました。
しかし、実効性がないまま増加しました。
1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒でした。
「北の吉原、南の品川」と言われるほど大遊興地として繁栄しました。
1844年1月に道中奉行が摘発した時は、1,348人の飯盛女を検挙しています。

1869年、武蔵知県事の管轄区域内に品川県が設置されました。
1871年、北品川の北に、品川駅舎の工事が着工しました。
1872年 宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われた。

北品川では多くの遊郭が営業を続けました。
関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域では、地価の安さや水運、用水の便から大規模工場が立地しました。
南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並びました。
その後も遊廓としての賑わいは、1958年の売春防止法施行まで続きました。

旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けませんでした。
戦後も北品川の遊郭は営業を続けました。
売春防止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成されました。

一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続きました。
従業員らを相手にした商店街が衰退しました。
近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残されました。
反面、宿場町特有の歴史的資源が維持されました。
1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織されて、歴史的景観を生かした町の活性化が計られています。

品川駅は世界有数の利用者数を誇ります。
2027年以降に開業するJR東海リニア中央新幹線の始発駅になることが正式に決定しています。

①「保永堂版」
 日本橋を出立した大名行列のしんがりの姿を描かれています。
 明け方近くの情景で、街道脇の店のほとんどは閉まっています。
 手前の茶屋だけは店を開け、中には客らしき女の姿も見えます。
 品川は吉原につぐ遊里としても栄えていました。
 右側の切り立つ山が八ッ山です。
 左の海が品川湾です。
 今は品川湾はありません。
 満帆の舟が数艘、泊り舟の帆柱も見えます。

②「行書版」
 早朝 日本橋を出発した二人の旅人が茶屋で休憩しています。
 海にはのりを取る漁師がいます。

③「隷書版」
 早朝 日本橋を出発した二人の旅人が茶屋で休憩しています。
 この茶屋は港に近く、大きな帆船が近くに泊まっています。

④「北斎版」
 品川は吉原につぐ遊里としても栄えていました。 
 遊女屋町の華やかな座敷風景です。

⑤「旅画像」
 22年前の品川駅です。
 今の駅とは全く違います。
 
⑥「スタンプ画像」
 JR品川駅のスタンプです。

保永堂版 

 行書版 

隷書版 

北斎版 

 旅画像 

 スタンプ画像


 

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