歌川広重-名所江戸百景-24-春-目黒新冨士 解説

歌川広重 名所江戸百景 目黒新冨士  名所江戸百景

歌川広重-名所江戸百景-24-春-目黒新冨士 解説

         

現在の住所:目黒区中目黒2丁目 付近

緯度経度 :緯度35.6340:経度139.7065

出版   :1857年4月 年齢:61歳 

解説

<1> はじめに

「目黒新冨士」は、江戸の人々が「富士山信仰」と「遊び心」を融合させた独特の文化を今に伝えます。

当時、江戸各地には「富士塚」と呼ばれる、富士山を模した小さな築山が造られました。

目黒の新冨士もそのひとつで、庶民が手軽に「登山参拝」を楽しめる人気の場所でした。

<2>目黒新冨士とは

江戸後期、富士講信者によって築かれた富士塚です。

「新冨士」という名のとおり、江戸でも比較的新しく築造された富士塚です。

高さ数メートルほどの人工の山で、登ると目黒の景色を一望できました。

富士山に登ることが難しかった庶民にとって、富士塚は「お山詣り」を代行できる神聖な場所です。

登拝すれば富士参りと同じご利益があると信じられていました。

<3> 絵の見どころ

小高い築山が画面手前に大きく配置され、そこに登る人々の姿が描かれています。

石段を登り、頂上を目指す庶民の姿は、信仰と娯楽が一体化した江戸の文化を象徴しています。

背景には、堂々とした本物の富士山が姿を現します。

手前の小さな「新冨士」と遠景の「本家富士」が、絶妙な対比を生み出しています

目黒周辺の緑豊かな田園風景も丁寧に描かれ、江戸郊外ののどかさが伝わります。

都市と自然の境界にあった目黒らしい風情です。

1819年に、幕府の与力近藤重蔵の邸内 (三田村槍が崎)に造られた富士塚です。

近藤は蝦夷地や千島列島の探検で知られ、後に書物奉行になりました。

この地に初めて富士塚が造られたのは1812年のことです。

それを元富士呼称し、新しい方を新富士と呼称しました。

遠景には富士山が描かれています。

中景の田園の中の森に囲まれた建物は祐天寺と思われます。

前に三田用水の支流が流れ、桜下に休み小屋と新富士を描いています。

富士塚はつづら折りの登りやすい道で山の中腹には身禄を祀った小烏帽子の石と社が造られていました。

頂上には富士山の方角を眺める三人がいます。

<4>江戸の富士塚文化

江戸時代中期以降、富士信仰が広まり、江戸の町には多くの「富士講」という信者集団ができました。

講中の人々が協力して築山をつくり、富士山の溶岩や石を配して神聖化しました。

江戸市民は「お山開き」の時期になると、この塚を登って祈願しました。

信仰だけでなく、登ること自体が娯楽でした。

子どもから大人まで、夏の行事として賑わいを見せました。

<5>現代の「目黒新冨士」跡

残念ながら「目黒新冨士」は現存していません。

都内には現在も保存されている富士塚がいくつかあります。

現存する代表的な富士塚:駒込富士神社(文京区)千駄ヶ谷富士塚(渋谷区)下谷坂本富士(台東区)

これらを訪れると、江戸庶民が新冨士で味わった体験を追体験できます。

新冨士跡地周辺は住宅街となっています。

目黒不動尊や目黒川沿いなど、江戸時代から続く名所が残っています。

<6>観光ガイド

①現存する富士塚めぐり

新冨士そのものは残っていませんが、東京に点在する富士塚を訪れると、江戸庶民の信仰心や楽しみを実感できます。特に駒込や千駄ヶ谷の富士塚は、現在も登拝可能です。

②目黒不動尊とのあわせ参拝

富士信仰とともに目黒不動尊も江戸庶民に人気の参詣先でした。

新冨士と同じく「目黒の名所」として愛されていた場所を歩くと、広重の描いた江戸をより深く理解できます。

➂富士山ビュー散策

晴れた日には、目黒川や台地から今も本物の富士山を望むことができます。

小さな富士塚と大きな富士山の「二重の富士」を眺めた江戸人の感動を追体験できます。

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