東海道五十三次の解説 43 桑名

東海道五十三次

四日市宿から桑名宿まで12.7km 北緯35度07分13秒 東経136度54分25秒
 
桑名宿は、東海道五十三次の42番目の宿場です。
現在の三重県桑名市になります。
脇往還佐屋街道はここから分岐していました。
徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町です。
江戸時代後期は、本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠屋が120軒です。家数は2,544軒、人口は8,848人です。
東海道では、旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模になります。

宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および、伊勢参りの玄関口となっていました。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにありました。
関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられました。それにより、市街地は西に移動しました。
城下は、18世紀後半に幕府の許可のもと米市場が開設され、江戸・大坂の相場を左右するほど商業の盛んな地となりました。
桑名宿は東海道における京阪式言語地区最東端の宿場町となっています。

七里の渡しは、東海道唯一の海路です。
宮宿との間は海路28kmで結んでいました。
所要時間は約4時間でした。
七里の渡しの船着き場跡には、伊勢神宮遙拝用の一の鳥居があります。
この鳥居は江戸時代の天明年間に、矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して立てたのが始まりです。

名物の蛤は、焼き蛤か煮蛤として食べされていました。
主に焼き蛤は即席で旅人に供され、煮蛤は土産物として売られていました。
江戸時代の桑名藩の蛤料理で、桑名藩領であったため、「桑名の焼き蛤」と呼ばれていました。
江戸時代に盛んだった、「富田の焼き蛤(とみだのやきはまぐり)」は、現在では焼き蛤料理は富田地区にはありません。

①「保永堂版」
 桑名湊の渡り口を描いています。
 海に大きく突き出た桑名城のやぐらが目に入ります。

 2艘の客船は、乗客で満席です。
 白帆を畳んで、右下に見える陸地へ今まさに着岸せんとしています。
 3種の乗合船が75隻就航していました。3種とは、40人乗り、47人乗り、53人乗りの乗合船です。
 
 木曽三川の河口の重要な港であった様子が、大型船の描写で描いています。
 船の帆柱の縦のラインと水平線および城の石垣による横のラインが軸になっています。
 手前に波に揺れ動く船、奥に整然とした海と堅牢な城を描いています。
 全体的に調和のとれた構図で描かれています。

②「行書版」
 保永堂版と同じ構図です。
 桑名湊の渡り口がわかりやすいです。
 鳥居がはっきり描かれています。
 待機している多数の乗合船が、多数の乗合船の存在をにおわせています。

③「隷書版」
 海上の乗合船が描かれています。
 保永堂版と行書版では乗合船の横からの様子が表現されていません。
 乗合船の構造と旅人の移動中の様子がいきいきと描かれています。
 白帆を張って進む船の勢いが気持ち良いです。
 
④「北斎版」
 桑名の焼き蛤」が焼けるのを待つ旅人の姿です。
 蛤茶屋の軒先で、火鉢の炭をあおり、蛤が焼けていく様子が描かれています。

⑤「旅画像」
 七里の渡しの石碑です。
 
 
⑥「スタンプ画像」
 JR桑名駅のスタンプです。  

保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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