歌川広重-名所江戸百景-25-春-目黒元不二 解説

歌川広重 名所江戸百景 目黒元不二  名所江戸百景

歌川広重-名所江戸百景-25-春-目黒元不二 解説

          

現在の住所:目黒区上目黒1丁目 付近

緯度経度 :緯度35.6330:経度139.7059

出版   :1857年4月 年齢:61歳 

解説

<1> はじめに

「目黒元不二」は、江戸における「富士信仰」と「富士塚文化」を象徴するものです。

先にご紹介した「目黒新冨士」と対になる存在で、「元」と「新」の両者を比較することで、江戸の人々がいかに富士山に親しんでいたかを知ることができます。

<2>目黒元不二とは

「元不二」とは、後から造られた「新富士」に対して「もともとの富士塚」という意味です。

江戸で最初期に築かれた目黒富士を指します。

富士講の信者たちが築いた人工の山(富士塚)で、実際の富士登山の代わりとして参拝できる神聖な場所でした。

江戸庶民にとって「富士に登る」ことは一生に一度の夢です。

その代わりに富士塚に登ることでご利益を得られるとされ、多くの人が参拝しました。

富士山が信仰の対象となり登山されたことは既に平安時代に記録されています。

最盛期は1830年~1844年で、江戸には八百八あったと言われるほど多くの富士講がありました。

<3> 絵の見どころ

手前に大きく描かれたのが「元不二」です。

人工の山ではありますが、その姿は本物の富士山を模しており、頂上まで石段が続いています。

登る人々の小さな姿が見え、参詣や遊覧を楽しんでいたことが伝わります。

背後には本家・富士山が大きく描かれています。

人工の富士と本物の富士が一枚に収まることで、江戸人の信仰心と憧れが巧みに表現されています。

江戸郊外らしいのどかな風景も描き、当時の目黒が「自然と都市のはざま」の魅力ある土地であったことを物語ります。

富士山には修験僧の案内で登りまするが、山まで行けない人達は富士山に見立てた富士塚に詣でていました。

この塚は1812年に伊右衛門が願主になり造られました。

この富士塚は美しい姿をしていたために江戸の各地から人々が訪れました。

前景の富士塚に一本の松とつづら折りの道を行く二人組がいます。

下には桜の木に囲まれた休み所で一休みする人が描かれています。

<4>江戸の富士塚文化と「新」と「元」

元不二は古くからある信仰の場です。江戸庶民が長年親しんだ「原点的な富士塚」です。

新冨士は後に築かれた新しい塚です。より多くの参拝客を集めた人気の場所です。

両者を別々に描くことで、江戸の人々が富士信仰をどれほど大切にし、また遊び心をもって楽しんでいたかを伝えています。

<5> 現代とのつながり

残念ながら「目黒元不二」も現存していません。

東京には今もいくつかの富士塚が残されており、当時の雰囲気を感じることができます。

駒込富士神社(文京区)千駄ヶ谷富士塚(渋谷区)王子稲荷神社富士塚(北区)

実際に登拝できる場所もあり、江戸庶民が楽しんだ「富士登り」の気分を味わうことができます。

<6>観光ガイド

①富士塚巡りで江戸人の信仰を体験

新富士・元不二は失われましたが、現存する富士塚をめぐれば、江戸時代の信仰心と遊び心を追体験できます。

②目黒散策との組み合わせ

目黒は現在も自然と歴史が残る街です。目黒不動尊や目黒川沿いの遊歩道を散策しながら、広重の浮世絵を重ねて歩けば、江戸の情景がよみがえります。

➂「二重の富士」を意識して見る

人工の「元不二」と本物の富士を重ね合わせた構図は、江戸人の夢を表現したものです。

現代でも、東京の街から本物の富士を望むときに、その感覚を想像してみると面白いでしょう。

コメント

Translate »
タイトルとURLをコピーしました