保土ヶ谷宿から神奈川宿まで4.9km 北緯35度28分22秒 東経139度37分56.2秒
神奈川宿は、東海道五十三次の3番目の宿場です。
現在の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近になります。
付近には神奈川湊がありました。
宿は本陣2軒、旅籠58軒、人口5,753人、家の数1,341軒の宿場です。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町で、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えました。
幕末には開港場に指定されましたが、実際には対岸の横浜村(現在の関内地区)が開港となりました。
開国以降次第に商業の中心は外国人居留地の横浜村に移りました。
1858年、神奈川湊沖・小柴に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結されました。
同条約では「神奈川」を開港すると定められていました。
街道を通行する日本人と外国人との間の紛争の対策として、湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくりました。現在の横浜港となりました。
神奈川町と青木町の二町からなります。
両町の境には滝野川が流れていました。
江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡ります。
滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢の町並みが続きます。
本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町に置かれていました。
問屋場は仲之町に、一里塚は下台町に設置されていました。
町並みは東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がありました。
枝郷として斎藤分(神奈川町)、三ツ沢(青木町)がありました。
旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を経て、そのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から環状1号線に沿って天王町駅、保土ケ谷駅方面へ進みます。
神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏が描かれました。
宮洲(現在の栄町)の潮干狩りは名物でした。
1833年は、暴風雨災害により、米価の高騰で、9月に神奈川宿で米騒動がありました。
1889年に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立しました。
1901年に横浜市に編入されました。
1601年に神奈川へ宿場が置かれました。
神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋が担いました。
神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊、南に戸部湊、野毛湊がありました。
亀の甲煎餅が名物でしたが、現在は提供している店舗はありません。
浦島太郎伝説にちなんだ亀の甲せんべいは、旅土産で江戸時代から大名や庶民に親しまれていました。
歴史を継いで販売してきた和菓子店が2005年に廃業し、300年近い歴史が途絶えました。
①「保永堂版」
神奈川台と呼ばれた宿場町の風景です。
左の海が『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏の題材になった場所です。
沖に見える奇形の高台が野毛山です。
遠くの小さな岬が本牧です。
急勾配の上り坂の街道沿いに茶屋が並んでいます。
店の前には客引きの女たちが、通行人を呼び止めています。
手を引かれた旅人とのやり取りがあります。
手前には六部と呼ばれた巡礼者がいます。
茶屋の海側には露台が設けてあります。
茶屋に入った者だけがこの露台から絶景を眺められました。
②「行書版」
加奈川宿を過ぎた高台の風景です。
ここは景色の良さで有名です。
宿場を振り返り見ている旅人を描いています。
③「隷書版」
山の上から茶屋を眺めている構図です。
2階建ての店や茶屋等いろいろな店があります。
④「北斎版」
旅籠の座敷で飯盛女と宴会している風景です。
⑤「旅画像」
京急 神奈川駅です。
⑥「スタンプ画像」
京急 神奈川駅の切符です。
保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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