歌川広重-名所江戸百景-7-春-大てんま町木綿店 解説

名所江戸百景

歌川広重-名所江戸百景-7-春-大てんま町木綿店 解説

           (おおてんまちょう もめんだな)

 現在の住所:中央区日本橋本町2丁目

 緯度経度 :緯度35.6890:経度139.7791

 出版   :1858年4月  年齢:62歳 

解説

<1> はじめに

「大てんま町木綿店)」は、賑やかな商業地区の活気を描いた作品です。

江戸の市街の中心で、木綿を扱う店々が軒を連ねる大伝馬町の様子を生き生きと伝えています。

江戸の経済を支えた繊維流通の拠点であり、庶民の衣生活と密接につながる場所でした。

広重はその賑わいを、往来する人々や堂々と並ぶ店の軒先によって見事に表現しています。

<2> 大伝馬町とは

「伝馬」とは、公用の馬を指し、幕府の交通制度に由来する言葉です。

江戸時代、大伝馬町は物流と宿駅制度に関わる場所として発展しました。

大伝馬町はその中心的な町で、物流・商業の両面で重要な役割を担っていました。

江戸時代中期から後期にかけて、大伝馬町は木綿問屋の集積地として大いに栄えました。

全国各地から運ばれた木綿がここで取引され、江戸中の庶民の衣料に行き渡っていました。

大伝馬町は幕府による格式の高い町人地でもあり、商人たちは経済の中枢を担う存在でした。

町並みも堂々と整備され、立派な木綿店が並びました。

木綿は江戸時代、庶民の衣料の中心でした。

絹は高級品、麻は夏の素材として使われました。

普段着や作業着の基本は木綿でした。

尾張や三河、伊勢など各地の木綿産地から大量に反物が運ばれ、江戸で流通しました。

大伝馬町はその中継拠点としての役割を果たしました。

木綿の流通を握った大伝馬町の商人たちは、江戸経済を支配するほどの力を持ちました。

木綿相場の変動は江戸庶民の暮らしに直結したため、人々は大伝馬町の動向に注目していました。

<3> 絵の見どころ

町の両側にびっしりと並ぶ木綿店の軒で描いています。

木綿の反物を扱う店は、白い布を積み上げて展示し、通りを歩く人々の目を引きました。

江戸の町通りを奥に向かって収束させる遠近法を用い、整った商業街の雰囲気を強調しています。

これにより町全体の規模の大きさと秩序が視覚的に表現されています。

店先を眺める買い物客や通りを行き交う人々が描かれ、商業の活気が伝わってきます。

江戸庶民の生活と町の躍動感が、この一枚に凝縮されています。

一つの屋根の下に同じ造りの店が軒を連ねる長屋形式は大伝馬町独特のものです。

建物の二階は格子が内側からはずせたり、屋根の上には雨水を溜めるための天水桶を置いています。

火事のときの防火設備が備わっています。

右から田端屋、升屋、嶋屋と続いています。

明かりのもれる店の中には、木綿の反物がつまれています。

揃いの衣裳の左の二人は芸者です。

問屋の宴会に呼ばれた帰りであこれんなると思われる。

背後には供の小女がいて、二人に気遣ってまゆが八字です。

左に大きな木戸が描かれています。

<4> 江戸庶民が感じた魅力

木綿は実用品であると同時に、色柄や品質を選ぶ楽しみがありました。

大伝馬町を訪れることは、現代で言えば大型ショッピング街を歩くような感覚でした。

店先にずらりと並ぶ反物は、見物するだけでも心躍る風景でした。

広重の絵にも、その「見て楽しい」商業空間がよく表れています。

大伝馬町は「江戸の富の象徴」として知られ、庶民の誇りでもありました。

ここに並ぶ木綿の山は、江戸の消費文化の豊かさそのものでした。

<5> 現代の大伝馬町を歩く

日本橋本町に「大伝馬町」の名が残り、江戸の商業拠点であった歴史を今に伝えています。

現代でもこの地域は繊維や衣料品の卸売業者が多く集まり、江戸からの伝統が形を変えて続いています。

町歩きをすると、旧大伝馬町に関する案内板や説明が設置されており、浮世絵に描かれた江戸の商業街を想像しながら散策できます。

<6>観光ガイド

①「江戸のショッピング街」を体感

広重の浮世絵を片手に現代の日本橋本町を歩き、往時の賑わいを思い浮かべましょう。

②日本橋エリア観光と合わせて

日本橋、三越本店、老舗の和菓子店など、江戸文化の延長線上にある見どころが多数あります。

➂繊維問屋街の今を知る

現在も布地や衣料の卸売業が息づき、江戸から続く商業文化を感じられます。

➃史跡スタンプラリー気分で

大伝馬町だけでなく、周辺の馬喰町、小伝馬町も歩けば、物流と商業の歴史が立体的に理解できます。

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