神奈川宿から川崎宿まで9.8km 北緯35度32分08秒 東経139度42分28秒
川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場です。
現在の神奈川県川崎市川崎区になります。
宿は、本陣2軒、旅籠72軒、家の数541軒、人口2,433人の宿場です。
東海道の成立時点では宿場ではありませんでした。
品川宿と 神奈川宿の間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かった。
川崎宿は1623年に正式な宿場が設置されました。
設置後には伝馬を務める農民の負担が大きく、問屋場が破産に追い込まれます。
1632年には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事となりました。
幕府は問屋場などへの支援を行いました。
しかし廃止の願いは却下され、さらに伝馬の負担引き上げになりました。
地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めました。
問屋、名主、本陣の当主を兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけ、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしました。
さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たしました。
川崎宿維持は、近隣の農民も助郷として負担を強いています。
1694年の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていました。
東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となり、1725年に定助郷・大助郷の区分を廃止しました。
後にさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられました。
助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものです。
その間は農作業にもかかれません。
川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまいます。
負担は重く、助郷の免除願をだしたり、出勤簿だけ書いて逃走したりしました。
負担回避のための行動が行われました。
支払う金銭は高額で、依然として助郷村は苦しむことなります。
川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、本陣は田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣でした。
惣兵衛本陣は江戸後期には廃業しています。
度重なる災害や各藩の財政窮乏で、幕末には本陣も衰微しています。
1857年には、タウンゼント・ハリスが田中本陣に泊まる予定でした。
荒廃のため万年屋へ移る事になりました。
この万年屋は東海道から川崎大師への分岐点にあり地の利もあって繁盛しました。
1877年には和宮親子内親王も泊まるなど、本陣を衰微させるとまでいわれ繁栄を誇っています。
1882年には第一京浜の工事のため姿を消しました。
平旅籠と飯売り旅籠の紛争が起きました。
旅籠は72軒あり、飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒ありました。
飯盛女を置いていない「平旅籠」が39軒ありました。
旅籠1軒あたり飯盛女は2人まででしたが、実態として守られていません。
取り締まりが必要なほど服装も華美になっていきました。
飯売り旅籠は、明治期に「貸座敷」として同様の営業を続けています。
①「保永堂版」
川崎宿に入る手前の六郷川の渡しの風景が描かれています。
東海道の道のりで最初に渡る大きな川が多摩川の下流の六郷川です。
対岸に見えるのが川崎宿です。
渡す船は「六郷の渡し」といわれました。
渡船賃料は1人10文、武士は、無料です。
武田信玄の甲州勢が攻めた時、北条方がこの橋を焼き落としてました。
その後、徳川家康の時代に橋は復元されました。
橋が、たびたび洪水で流されました。
それで舟で渡河するようになりました。
②「行書版」
川崎宿に入る手前の六郷川の渡しの風景が描かれています。
低い視点から描かれています。
2艘の渡し船のすれ違いを表現しています。
奥に富士山が確認できます。
③「隷書版」
両岸を描がき、その中央に渡し船を横から描いています。
渡し船内の様子がよくわかります。
大きな帆船により川の深さを表現しています。
④「北斎版」
六郷川の渡しの風景が描かれています。
渡し船がくるのを旅人が待っています。
⑤「旅画像」
八丁畷の案内板です。
⑥「スタンプ画像」
JR川崎駅のスタンプです。
保永堂版

行書版

隷書版

北斎版

旅画像

スタンプ画像

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